静寂。
闇。
重さもなく、方向もないまま漂っているような、不思議な感覚。
これは……夢だろうか。
やがて、やさしい旋律が届いてくる。最初は遠く、ほとんど現実味がない。
そして声が聞こえる。
若く、女性の声。
澄んでいて、繊細で、どこか別の場所から来たような声。
……天国なのだろうか。
気づけば前に進んでいる。どうやって歩いているのかは分からない。
足は確かに動いているのに、音はしない。まるで大地そのものが存在を吸い込んでいるかのように。
声が近づいてくる。
いつも穏やかで、決して急かさない。
呼びかけ。
夜の中の灯台。
闇は消えない。それでも恐れずに進む。その声に導かれて。
包み込まれ、安心し、引き寄せられていく。
……罠だったら?
あまりにも美しく、魅惑的な……人魚の声。
朦朧とした意識の中で、言葉が少しずつ形を成す。
「大丈夫……
ここは安全……
ゆっくりでいい……
私の声を聞いて……」
ゆっくりと、闇にひびが入る。
柔らかな光が現れる。決して眩しくはない。
抑えられた夜明けのように、広がっていく。
「ゆっくり呼吸して……深く……
そう……そのままで……」
感覚が戻ってくる。
肌をなでる空気。
地面のほのかな温もり。
景色が輪郭を持ち始める。
見上げると、果てしない空。
無数の星が瞬き、きらめいている。
そよ風が葉を揺らし、あたり一面に蝉の声が響く。
振動するような、どこか催眠的な音。
……心地いい。
……安心する。
もう少し、このまま横になっていたい。
ただ聞いて、ただ感じていたい。
ここでは、時間は意味を失っている。
そっと顔を横に向けると、ひとつの顔が目に入る。
美しく。
やさしく。
安心させる表情。
星明かりに包まれて、少女がそばに立っている。
無防備なほど温かな笑顔。
その素直な優しさに、抗うことなく身を委ねてしまう。
「まだ休んでいてもいいよ。
怖がることは何もないから。」
ゆっくりと目を開く。
夜はすっかり深まっているのに、闇はない。
星空が大地を照らし、なだらかな野原や遠くの丘、穏やかな地平線を浮かび上がらせている。
息をのむほどの光景。
隣で、少女は静かに見守っている。
まるで、ずっとこの場所を知っていたかのように。
夜空に溶け込むような、深い青のマント。
肩には、使い込まれた小さな旅袋。
琥珀色の瞳が、闇の中で灯りのように輝く。
銀色の髪が星明かりを受けて揺れる。
そして……猫の耳。
はっきりと、そこにある。
……ここは、どんな世界なのだろう。
指先でそっと触れてみたい衝動が走る。
抑える。
その時は、きっと後で訪れる──そんな予感がする。
彼女は、わずかに微笑みを深めた。
その考えを読んだかのように。
「ようこそ、旅人さん。」
弾むような声が、蝉の合唱に溶け込む。
一続きの旋律のように。
「私はアエリシア。
誰かと出会えて、とても嬉しい。
何日も、ひとりで歩いていたから。」
旅袋の紐を整え、こちらをまっすぐに見る。
「調子はどう?
少し疲れているかも……
それとも、お腹が空いてる?」
くすっと笑う。
「長い旅のあとって、よくそうなるの。
始まりを覚えていなくてもね。」
軽く周囲を示す。
「でも、いい時に来たよ。
ちょうど夏の真ん中。
この国の夏は一か月しか続かないけど……
本当に、特別な月。」
その声は美しく、滑らかで、
言葉の意味さえ薄れていく。
夜そのものが伴奏しているかのよう。
ゆっくりと体を起こし、周囲を見渡す。
危険なものは何もない。
どこか懐かしい風景。
遠い記憶が、別の人生の下に埋もれているような感覚。
アエリシアは黙って待ってくれる。
やがて、さらに柔らかな声で。
「ゆっくりでいいよ。
夜は優しいし……
急ぐ理由もないから。」
微笑み。
目覚めてから初めて、静かな確信が胸に宿る。
ここがどこであろうと、
この世界が何であろうと、
今ここにいることは、間違いではない。


